アホウドリの散策

旧アホウドリ天文台です

ヘリオセントリックで木星が春分点を通過。それであれこれ考えたことのメモ。

 

昨日の19時頃、ヘリオセントリックで木星が黄経0°を通ったらしいです。

 

 

それでまた、ヘリオセントリックでの地球の春分点の役割ってなんだろう? ということを考えていました。

 

だらだらと考え続けていますが、「きっとこういうことだろう」と、私の納得いく落ち着き先は、まだ見つかっていません。

 

 

ふと、下降ではなく上昇で必要なのではないか? 太陽から下りるときにはそれは必要ないが、地球から上るときにはそれが必要になるのではないか? そんなふうに思ったりしています。

 

 

占星術界隈だと、ジオセントリックで太陽が春分点(黄経0°)にくると、新年の始まりのような感じです。心機一転。新たな周期。リセットされた意識が生命に宿って生き始めるような感じかもしれません。地球の意識が地球世界に入り込んだ点。

ですが、同日のヘリオセントリックでの地球位置は秋分点(黄経180°)です。太陽から見た階層になれば、自分(地球)は一番底の物質だった、と知ることになる。

下の惑星の階層では、自らが世界を作る王様のような意識になるけれど、上の太陽の階層では、自分は眠りから覚めたばかりの物質のような存在だと気づく。上下の階層の行き来をしていればその仕組みは当然のことなのでしょうが、一つの階層に居続けるとすっかり忘れしまい、そこで王様になれば安泰だと満足してしまうのかもしれません。

 

春分点秋分点は、その仕組みに気づきやすくなる点なのかもしれません。
自分は、下方に対しては意識であるが、上方に対しては物質である。
下も上もどちらも必要で、そのバランスを微妙に崩すことで上下運動をしているのだろうと思います。全部崩したら、際限なく下りっぱなし上りっぱなしになって、たぶん生命が保てない。

 

ジオセントリックでの秋分点のほうは、自分と他者の区別、それぞれの者がそれぞれの世界を持った個体であると認識するのだと思います。これがヘリオセントリックになると、地球は春分点の位置です。地球による世界の範囲、地球の惑星意識の体の大きさを自覚することで、その体に合った意識の活動が始まるということかもしれません。

 

 

では、ヘリオで木星春分点を通るとどうなのだろう?

ジオセントリックで木星春分点を通るときと、どう違いがあるのだろう?

太陽と地球なら中心と周辺の関係ですが、木星と地球は周辺同士の同階層です。太陽のようには働かないけれど、太陽が分け与えた一部性質においての疑似太陽のような働きはするのだろうか?

木星的な疑似太陽意識の世界において、地球はやっと個体として目覚めたばかりの赤ん坊でしかない。そんな自覚が持てるのかもしれません。

 

ちょっとつかみどころのない話になりましたが、木星は精神性みたいな意味もありましたっけ? なら、このような記事を書くのもちょうどいいのかもしれないですね。